読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

みかんとつめきり

気の向くまま雑記

“きょうだい”と学歴の話 その②

おはようございます。

15日のニチアサキッズタイムを楽しんだのち、急に地上波とネット回線がつながらなくなりこの世の絶望を味わいました(大袈裟)。今日のお昼過ぎに復旧しました。

タケル殿ー!VDSLはやはりゴミでございますぞー!

いやしかし、PCがネットに繋がっていないのが想像以上に落ち着かなくて、控えめに言っても依存症ですね。

 

さて続きを書くと言ったからには実行せねばなりません。前回の記事を受けてのものですのでよろしければ是非。

 

zombie-zoo.hatenablog.com

 

どんな話だったかといえば、最終的に

「きょうだいの性別構成が学歴達成に影響しているのか?」

という疑問が浮かんだところで終わっていたと思います。

 

それではグループの人たちが“別のメカニズム”についてどのような考えを挙げたか紹介しましょう。

 

プレッシャーの問題

これは心理的な視点で、文献内でも「妹が兄の模倣をするのでは」という説が述べられていましたがこれに通じるものかと思います。

「上のきょうだいが○○大学に入ったから私もそのレベルの大学に進学しなければいけないのでは?」

とか、

「上のきょうだいのような学歴はとても達成できそうにない」

というような圧力を自分にかけてしまうことで思うように学歴を達成できなかったりするのではないか、という意見でした。

もちろん逆に触発されてより高い学歴を達成しようとする意欲が生まれる人もいるでしょう。

“きょうだいの存在自体”が学歴達成に必ず何らかの影響を与える、ということを認める意見とも言えます。

 

両親のきょうだい構成の影響

これは個人的に唸る意見でした。この文献の流れに即し、しかもメカニズムとしても的確な指摘でしょう。

要するに

「父親・母親が第何子でどのようなきょうだい構成だったのか」

ということが教育投資に大いに影響を及ぼすのではないかという意見です。

“きょうだい達”に教育を与える家族一人ひとりがどのようなきょうだい構成の一人か、それによってどのような育ち方をしてきたのかが、“きょうだい構成の影響”を複雑にしている、というのですね。

例えば

「父親は長男で弟が一人いたが、両親に家を継ぐよう決められていて、勉強をして学者になりたいと思っていても進学できなかったという過去がある。なので自分の息子(特に長男)にはやりたいことを率先してやらせたいと思っている」

といったように。

“きょうだいの構成”が1つのきょうだいではなく、家族の系譜として綿々と続いてきた多くの“きょうだいの構成”が全体として末端のきょうだいの学歴達成に影響を与えている。

壮大で複雑で、強いメカニズムです。心理的とも言えますし、機械的な視点でもあります。

 

やー、こういう柔軟で道理に適った見方ができるようになりたいものです、本当に。

 

 

“客観的視点”は本当に客観的なのか?

今回読んだ文献では「扶養者による教育投資」という1つの視点だけから見た「きょうだい構成の学歴達成に対する影響」が分析されていました。筆者も述べているのですが、「調査データのさらなる蓄積とそれによるメカニズムの発見が大事だ」ということで〆られています。

しかしそれだけでは足りない、不十分だということはグループワークを通してすでに分かりきっています。

確率標本を調査することによる詳しい統計データの蓄積・分析は法則やメカニズムを見つけるうえで不可欠でしょう。ただ、きょうだいの性別構成があまりにも複雑だということから、単に一つの枠に囚われた分析では絡み合ったものを解きほぐすことは難しいことに既に筆者自身も気づいているのではないでしょうか。

要するに、「客観的な視点」という「主観」に無意識に縛られているということです。

統計データを用いている。枠組みを設けて関係性を俯瞰している。果たしてそれだけで「客観的な視点に基づき分析しているので冷静で正確だ」という証明になるのか?

 

哲学などをかじっていると「エポケー」という言葉に遭遇することがあります。

これはフッサールに代表される現象学に出てくる言葉で、「判断停止」といった意味合いのもの。判断を一時停止して物事を「括弧入れ」することで、現象学的還元というものに繋げるのですが、私自身勉強不足なので詳しい説明はできません。

厳密には客観化とは違うもので、この現象学的還元の時に「括弧入れ」した命題を語る「現象学的言語」によって真に迫ったものの判断をしよう、といった主張です。

現象学的言語は、私たちが普段使う「標準言語」から先入観や偏見・思い込みを排除して命題を純粋に記述しようとするものなのですが、これは確立されていません

 

要するに私は、

≪私たちは何を考え、分析するにも未だに本当の「客観視」はできていない≫

ということを言いたいのです。

 

 

なんだかクソ真面目な話になりつつあるので若干修正。

 

「客観視ができない」とはつまり「主観に沿った判断ができる」ということ。

なら「主観と主観をたくさん寄り添わせて真理に漸近できる」んじゃない?

っていうのをふとこの読書会を通じて感じたわけです。

(言わずもがな、冷静な主観のために個人がしっかり考える力を身に着けることが前提な訳ですが)

 

 

 

みんなも読書会、しよう!解散!